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なぜヒトラーは文化遺産を破壊したか

2018年3月10日「土曜日」更新の日記

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 1986年の夏、私はポーランド、ハンガリーを訪れた。  第2次世界大峨は、ナチス・ドイツがポーランドを侵略したことからはじまる。 1939年9月1日、ヒットラーは怒濤の勢いでワルシャワに侵攻する。 爆撃や市街戦によって、ワルシャワの街の70パーセントが破壊された。 そればかりでなく、ワルンヤワやその他の街に侵攻したナチスは、ポーランドの歴史的建物や記念物を計画的に爆破してゆく。 王宮や教会や古い街が徹底的に破壊された。  なぜヒットラーは、こういった歴史的文化財を破壊しようとしたのか。  ヒットラーはドイツ人こそ世界で最もすぐれた民族であり、そのために領土を拡大しなければならないと考え、ポーフンドに目をつけた。 しかしポーランド人をすべて抹殺することは不可能だ。 そこで彼が考えたことは、ポーランドの歴史的記念物を完全に破壊しつくすことだった。 その国の文化遺産を破壊すれべその国の民族は存在しないのと同じになるLもし文化遺産が残っていれば、その民族はそれをよりどころとして独立運動を起こす。 ポーランド人がっくりあげてきた歴史の証である歴史的記念物を粉砕してしまえば、ポーランド人の心の支えは崩れ去ってしまうと考えたのである。  ヒットラーはまたショパンの音楽を聴くことも禁止した。 ショパンを聴いていたことがわかれば死刑にされた。 なぜショパンが禁止されたか。 ショパンの音楽の中にはポーランドの風景が描かれ、ポーランド人の民族的精神というものがこめられていたからだ。ショパンを聴くことは、ポーランドの風景と文化を思い出させることになる。 それはポーランド人の誇りとなり、心を支える。  まったく恐ろしい思想だけれども、逆に、歴史的文化遺産のもつ価値と意味をヒットラーが正しく把握していたという点で驚かざるをえない。  戦後、ポーランドはこれを完全に復元する。 それは、ポーランドの人たちにとっては、ヒットラーが抹殺しようとした歴史的意識を取り戻し、民族の存在を証明する営みなのだった。  当時は戦後すぐの食糧難の時代で、住む家もなかった。 そんな時期に、王宮や教会に集まり瓦礫の中からレンガを1枚1枚積み上げていくポーランド人の姿は、世界中から冷笑されたともいう。 しかしそれは、ポーランド国民にとって自分たちの存在の復権の証だったのである。

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